十五夜

ある満月の夜のこと。
夫婦の寝室で寝ていた正彦さんは、急に目を覚ました。
背後には、布団がめくれる感触。初冬の冷気。

一緒に寝ていた妻が布団を出たのだろう――と正彦さんは思った。
しかし、あまりにも背中が寒かった。
めくれた布団を元に戻そうと寝返りを打った正彦さんが見たのは、全開にされた窓の前で正座する妻――美香さんの姿だった。
「美香」
呼びかけてみたところ、美香さんは両肩を驚かせながら正彦さんの方に向き直り、
「あれ。私、どうしたんだろう」
と、溢れ出す涙を両手で拭い去った。
「何してるの? どうしたの?」
「わからないの。でも、満月を見ていると、私、すごく悲しいの」

この時、正彦さんは、人間だから急に感傷的な気分になることもあるのだろうと、そう片付けたのだが、この出来事のちょうど1ヶ月後――。

「美香。美香!」

満月の夜、美香さんが窓を開け放って、前回と同じような泣き方でさめざめ泣いていたのだ。

「美香。美香」

呼びかけ続けても返事がないので、か細い肩に触れようとしたところ――、
「姫は渡さぬ」
と男の声がした。

美香さんと満月の間に一瞬、赤黒い鎧兜を纏った武者の立ち姿が見えた。
武者の姿が消えるとともに美香さんは正気を取り戻し、「不思議な夢を見た」と正彦さんに告げた。

「夢の中に綺麗な着物姿のお姫様が出てきて、そのお姫様は満月を眺めてるんだけど、すごく悲しそうに泣いてたの」

――妻は夢遊病になってしまったんだろうか?
――悪い幽霊にでも取り憑かれてしまったのだろうか?

心配に思ったものの言葉を続けられず意識を失ってしまった正彦さんは、夢か現(うつつ)かわからない空間で、赤黒い鎧兜を纏った男に延々と首を絞められ、気がつくと朝を迎えていた。

「確かにあの子は、夢遊病っぽいところが昔からあったのよね」
美香さんの母親に相談した正彦さんは、義母の言葉のひとつひとつに驚愕した。

美香さんは子供の頃、真夜中にベッドを抜け出してしまう癖が確かにあり、月を見ながら、何が悲しいのか、さめざめ泣いていることが何度もあったという。

「何が悲しいの、って訊いても、わからないって言うし、大人になって落ち着いてきたと思ってたんだけどね」
「それって、いつからはじまったか覚えてますか?」
「小学6年生くらいからかな。ちょうど思春期に入る頃だったから、娘にも娘なりに色々あるのよねって。しつこく訊かないようにしたのよね」

――これは、ただの夢遊病や幻覚ではない。
と思う理由が、正彦さんにはあった。
というのも、正彦さんと美香さんと美香さんのご両親、四人が暮らすこの家は、晒し首通りと呼ばれる通りに面しており、インターネットで検索しても古い文献を調べても、どうしてそのように呼ばれるようになったかは書かれていないのだが、曰くがある、ということは、近所の方からも度々聞かされていたのである。

――美香を普通の状態にしてあげたい。

そう思った正彦さんはその後、知人のつてを頼り、浄霊ができるという男性――林さんを見つけることができた。
だが林さんは正彦さんの家の前に来るなり、
「入れないね」
と言い放ったのだ。

「よくもまあ、こんなに沢山いるところに」
林さんはそう呟くと、「娘がいても良ければ、私の家でお話しませんか?」と提案してきたのだった。

林さんの家は正彦さんの家からそう遠くなかったため徒歩で移動し、夫婦で林さんの家に上がると、林さんの娘――十代後半に見える女性がちょうど階段から下りてきたところで、美香さんの方を見て一笑し、
「わあ、いっぱい連れてるね」
と言うなり、そのまま廊下の奥へ消えてしまった。

「幽霊と言えど人は人。生きている人に説得する時と同じように対話を試みて、美香さんから離れてくださるようにお願いしてみますね」

居間に通された正彦さんと美香さんは、林さんからそう説明された。
何が起こっているのかよくわからなかったが、ひとりごとのようにも見える林さんの“対話”は40分程度で終わり、この日を堺に美香さんの異常行動はぱったり治まったのである。

「赤備えの方の名前はわかりませんでした。お姫様の名前も、尋ねても口を割ってくれませんでした。でも、関ヶ原の合戦に関係していた、というようなことはおっしゃっていましたね。武者は、関ヶ原の合戦に関係するある一族の姫にお仕えしていたようです。従者は姫を恋い慕うようになってしまい、姫にもまた別の想い人がいて、姫も武者も、切ない片想いを数百年続けているようでした」

姫は悲しそうに「この者を連れて帰ります」と林さんに告げると、武者を従えながら北の方角へ消えたのだそうだ。

関ケ原の合戦は、新暦の1600年10月21日、旧暦では9月15日に当たる日に開始しており、満月だった可能性が高い。
また、赤備えの鎧兜と言えば真田家が有名であり、正彦さん一家が暮らす住居の北の方角に群馬県沼田市――真田一族の支配した地域がある。
関ヶ原の合戦から400年以上もの時が経っているが、姫の亡霊は今も満月を見る度に涙を流しているのかもしれない。

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