【松本城の伝承・怪談】年貢を激しく取り立てた水野家の末路

松本城 乾小天守

松本城
別名深志城
築城者

<深志城(松本城の前身)>島立貞永

<松本城>石川数正、石川康長

魅力

黒漆塗の下見板と白漆喰のコントラストが美しい現存天守(国宝)。大天守と乾小天守が渡櫓で繋げられており、徳川家光のために作られた月見櫓や、辰巳附櫓などの櫓がある。五重六階の天守としては日本最古。

伝承/怪談

・烏城(からすじょう)・・・松本城の異名。金箔や金色の映える黒塗りを好んだ秀吉の趣向を反映した結果、カラスのように真っ黒な色が多く用いられたのであろうと言われている。城内からは金箔瓦も出土している(松本市立博物館収蔵)。

・城の傾き・・・祟りによって傾いたのだろう、といった怪談が伝わっていたが、後に天守台の柱の腐敗を原因とした傾きだったと判明。天守の傾きは明治期の工事により解消されている。しかし、耐震性に問題があるということで発掘調査が進んでおり、2026来年度以降に耐震工事が予定されている(2024年12月現在)。

・義民多田加助(ただかすけ)・・・松本藩は他の藩と比べ年貢が高かった。1686年秋、水野忠直(みずのただなお)が藩主だった頃の松本城において百姓の反発が起きた際、役人(庄屋を取り締まっていた役人)と百姓の間に加助が割って入り「諏訪領も高遠領も(取り立ては)2斗5升である」と役人に訴え、百姓を庇った。

百姓を庇護する加助は役人らから疎まれ庄屋を辞めさせられることとなった。加助は百姓らの餓死が差し迫っていることから14人の同志を募り訴状をお上に提出することにしたが、移動中に人数が増えに増え、最終的に5千人以上という規模の一揆となった。
年貢を2斗5升にするという約束を城代と取り付けることに成功した加助だったが、大規模な百姓一揆の首謀者として召し捕られてしまい、加助を取り巻く人々も、一揆への参加、非参加を問わず、女子供も容赦なく召し捕られ処刑されている。
2斗5升(現代で言うところの減税)の約束は守られず、加助は両脇腹から槍で刺されるといった方法で処刑されることとなり、「2斗5升、2斗5升」と絶叫しながら短い人生を終えた(享年47歳)。

その後、水野家では不幸が続いた。家運を大きく傾ける事件が起こったのは1725年のこと。水野忠恒(みずのただつね)が結婚の報告をする都合で江戸城を訪れた際、突然、忠恒は毛利帥就(もろなり)に斬りかかってしまった。乱心の原因として忠恒は「領地没収への不安があった」といったことを述べているが帥就への私怨は見られず、事件現場が松之廊下(かつて浅野長矩が吉良義央を斬りつけた場所)だったことから多くの憶測を呼んだ。家臣の実数の記録がないため定かではないが、この事件によりリストラとも言える憂き目に遭い食い扶持を失った人々が7千人あまりいたであろうと推測されている(参考『松本城 その歴史と見どころ』)。

・加助坐像・・・水野家ではその後、多田加助を祀ることが決まり加助坐像が作られたが、これは後に加助神社に寄贈され、現在は貞享義民記念館に収蔵されている。

【参考】

松本城公式HP

塚田正公著『義民城に叫ぶ:加助騒動の真相をさぐる』,貞享義民を讃える会,1986.3.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/9540257(参照 2023-07-26)

金井円編著『松本城:その歴史と見どころ』,名著出版,1984.8.国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2024-12-21)https://dl.ndl.go.jp/pid/9539420(参照 2024-12-21)

アクセス

・松本駅下車徒歩約20分。
・松本ICから車で約20分。
・松本駅東口徒歩2分の「松本駅お城口」へ移動、松本周遊バス「タウンスニーカー」北コースに乗り「松本城・市役所前」下車(乗車時間約10分) 。

 

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